欲望の持ち方その2 ―快楽主義の哲学―
渋澤龍彦の書いたこの本には、若者たちの欲望を煽るアジテーションに満ちている。そして彼曰く、酒池肉林の豪勢な生活が欲望であるならば、清貧潔白な慎ましい生活も欲望の一種であると書いている。結局のところ、人の欲望も千差万別で、自分でそれがいいと思うものが、その人にとっての正解だと、月並みな結論にならざるを得ない。
この本には若い女の子の夢や目標が一人ひとり掲載されている。そのどれもが至極わかりやすくて、「幸せってこういうもんだよな」などと馬鹿にしているわけではなく、ただ素直に共感できるものばかりだ。
「貯金する」
「家が欲しい」
「肉を食いたい」
「服が欲しい」
「パーティーを開きたい」
「海外旅行に行きたい」
「枝豆をたくさん食べたい」
人は思ったより賢くないし、馬鹿でもない。欲しいもののために頑張る。ただそれだけでいいのじゃないか。当たり前すぎて不思議な着地点。ん?訳が分からなくなってきました。
欲望の持ち方その1 ―わが人生処方―
吉田健一はこの本の中で、「人が生きていく上では、各種の肉体的欲望が強いことが大切だ」と述べている。それもただ食う為、などと抽象的なことを言っているのではだめで、あそこのトンカツが喰いたいだとか、あそこの生ガキを5人前喰うだとか具体的なものでなければだめだという。至極当たり前なことを言っているようだが、このデジタルに染まったご時世、こういった感覚をとかく失いやすくなっている現代人には必須な感覚だと思える。人はとかく予測のつかない未来や、目に見えない物事に関して考えすぎてしまうものだ。
【これから日本経済は衰退の一歩だ。ひたすら貯金をしておこう】
【あの人はわたしのこと本当に好きだろうか。それらしい素振りは見せていたけれど……】
【子供の行く末が心配だ。なんとか頑張って私立の良い学校へ入学させよう】
長期的な人生計画はとかく挫折しやすいし、変更する確率も多い。吉田氏はもっと単純に「今」に集中することを勧めている。勿論、人の努力をバカにするつもりはさらさらない。ただそれが、ポジティブな理由であればいい。
【家族が年を取っても仲良く暮らせるように今から貯金をして家を改築しよう】
【あの人が私の恋人になってくれたらうれしい。もし振られても、この経験はわたしの素敵な思い出にしよう】
【わが子には幸せになってもらいたい。子供の可能性をたくさん広げてやるために良い学校へ入学させよう】
長期的な計画に向かうためにはどうしたらいいのか。それはもっと単純にあそこのトンカツが喰いたい。あのバッグや腕時計が欲しい。異性にモテたいなどわかりやすい欲望を持つところから始めるのがいいのではないか。ただ問題は、その欲望というものを持てないでいる人々が大勢いるということだ。
部屋の顔
会社の同僚とテレビは部屋に必要なのかという話になった。彼曰く、テレビはほとんど見ないそうで、私も深夜のバラエティ番組を録画してたまに見るぐらいで彼と同じようなものだ。それじゃあ代わりに何を見ているかといえばスマホの小さな画面を食い入るように見るということになる。確かにスマホさえあれば、残りの情報機器の必要性は減る。スマホがあればテレビも見れるし電話もできるしネットもできるしゲームもできる。だが私はふとテレビのない自室に自分がいるのを想像したとき、テレビはあった方がいいと思えた。それはテレビの持つ、情報を発信する機器としての必要性とはまた別に、部屋のレイアウトとしてテレビがないと様にならないのだ。テレビのない部屋はそれこそただ人が待機している場所。監獄のような窮屈さを感じさせるのではないかと思った。それと同時にテレビというのは窓、というとらえ方もできるのかも知れない。窓そのものはどの部屋にもあるだろうが、多くの窓は人の感情を満足させるような景色ではないだろう。また夜になれば窓はカーテンなどで覆われてしまい、外の景色を眺めることなんてできなくなる。鉄筋コンクリートで固められた密室にいるとき、人は景色を求めて、ディスプレイに飛びつく。テレビのような大きな画面と、スマホの小さな画面、どちらがより解放感をもたらしてくれるかを考えると、それはテレビに軍配が上がるのではないか。小さな画面にかじりつく自分を傍から眺めたとき、私は自分のことを気持ち悪いと思うだろうし、そいつのことを嫌いになるだろう。
うらおもて人生録
勝ちすぎてはいけないし、負けすぎてもいけない。
ナンバーワンよりオンリーワンを歌ったsmapは解散した。人生を勝ち負けで判断する生き方は、ひどく窮屈でいつまでたっても幸せを感じられない、言わば試合で勝って勝負で負ける状態とも捉えられる。それじゃあオンリーワン一筋でいけばいいかといえば、それもまた違うと人は思うだろう。やっぱり試合には勝ちたいし、他人よりも多くの富を勝ち得たいとおもうのも人の性だ。結局のところ、勝ち方、とでもいうのか、当人にとっての幸せ何て十人いれば十通りの答えがあるし、それが人と被れば競争ということになるのかもしれない。どうやったって勝てない戦いは必ずある。そういうときは早めに勝負を降りて、別の幸せを追求した方が効率的なのかもしれない。これもひとつの価値観だが。
文学空間特装版
ブランショの文学空間には特装版というものが存在する。駒井哲郎氏の銅版画が封入されたものだ。市場には思い出したように湧いて出ることもあるが、数そのものの少なさもあり、貴重なものだといっていいだろう。私も何度か売りに出されているのをネットで見かけていたが、なぜかそのようなときに限って金欠だったり、精神的に不安定だったりして、手に入れるチャンスを逃し続けている。古本収集をする身にはよくある、「なぜか縁のない本」というのが存在するが、私にとっては文学空間特装版がそれにあたる。
私の所持しているものは旧壮丁の箱が欠けた古いものだ。他人の皮脂とタバコのやに、そして複数人の手による書き込みにまみれたお世辞にも綺麗とはいいがたい代物だが、これが駒井氏の手がけた黒い嵐のような壮丁も相まって、魔術めいた禁断の書、とでもいうような異様な雰囲気をたたえたものになっている。もしやこいつがいるから特装版が手に入らないのではないか、などと思い込んだりもするが、失ってはじめて気づく価値というのもあるだろうからそのままにしている。様々な人の手を渡ってきたであろうこのくたびれた本と、新品同様で美しい銅版画の付いた特装版、どちらに価値を感じるのかは人によって様々だろうが、なにかそこには人を大きく分けるものがあるような気がしてならない。
終わりなき対話
終わりなき対話 III 書物の不在(中性的なもの・断片的なもの) (シリーズ・全集)
- 作者: モーリス・ブランショ,湯浅博雄,岩野卓司,郷原佳以,西山達也,安原伸一朗
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2017/11/22
- メディア: 単行本
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謙虚すぎる態度は、時に傲慢にもなりうる。
かつてはかぶりつくようにして読んだブランショも、一時の出版ラッシュのあとは次第に尻すぼみになり、今では他の書籍の山にまぎれてその姿を見出しにくい。ただなぜだかそのポジショニングのうまさとでもいうのか、決しておれがおれがと前に出てくるわけでもないのに、いつまでも視界の端にしぶとく居残り続け、特別な立ち位置、とは言っても、決して必須な役割を与えられているわけでもないのに、どことなく偉そうな、いや、マイペースな彼を切り捨てられない半端さが愛おしくもあり、苛立たしい。
数ページ読むともうおなかいっぱいで、なるほど、わかった。俺には少し難しすぎたと白旗を振りながら、銃を向けるこの感じ。好きなのか嫌いなのか。ただ気になり続ける彼の存在を無視し続けられないこのことに、なにか意味などあるのか。いや、ない。これが彼の作戦なのだ。そしてこの彼の作戦を通してなにか学ぶべきことがあるとするならば……。
麻婆豆腐
自炊が楽しい。
特に料理は好きだ。自分の裁量権が大きいし、すぐに結果が見える。安くおいしいものが作れるとそれだけで自分が自由になったような気がする。
今日のメニューは麻婆豆腐。
ひとり暮らしなので自炊なんかせず、スーパーの総菜コーナーで買いそろえた方が経済的なのではないか、とも思えるが、料理そのものが好きだし、肉や野菜などの生ものを買ってくると、それをうまく消費しようと消費期限に合わせた生活リズムができあがるので、ただ何も考えず惣菜を購入していたときよりも、生活リズムが規則正しくなる。季節の野菜など見ていて飽きないし、自炊のレパートリーが増えていくのもうれしい。料理は食だけでなく、健康にも関わっている。さらに工夫を凝らすので頭の体操にもなって、一石二鳥、いや一石三鳥、四鳥ぐらいにはなっているかもしれない。
明日は何を食べようか。