ひとり暮らし

雑記。日々思うこと。

交遊録

 

交遊録 (講談社文芸文庫)

交遊録 (講談社文芸文庫)

 

 

 神保町にある東京堂書店や古書展でやたら吉田健一の名前が目に付く。教養だけではない、地頭の良さがわかる文章には人の熱と読者への親しみがこもっている。

 

 人との縁というのは不思議なものだ。あらかじめ用意されていたもののように人と人は繋がり、役目を果たすと離れていく。わたしがよっぽど世間知らずに見えたのか、はたまた、他人に教えることで優越感を得たいがためなのか、それとも、ほんとに世のため人のため、与えることが社会全体を向上させるだろうという善意の上でのことなのか、まったくの初対面であるにもかかわらず、あーだこーだと教えてくれる人たちがいる。若い頃の私なら、彼らの善意を疑ってかかり、内心、「だまされてなるものか」とほくそ笑んだものだが、歳を取り、いくらかでも世間を知るようになってきてからは、人を疑うよりも信じて生きたほうが幾分、楽に生きられることに気がついた。もちろん魑魅魍魎のはびこるこの世の中で、なんでも鵜呑みにしていればいいというようなことはなく、人を疑うことは必要なことだ。ただ今になって思えば、あのときもっと素直でさえいれば、たくさんの恩恵に与れたのかもしれないのに、そのときの自分はそれを否定して受け取れず、なんと心の器の小さい男だと、今になって自分を叱責したい気分にもなったりする。ただそのような経験があったからこそ、心の器というものも少しずつ大きくなり、決して裕福ではなくても、人並みに生活できているこの事実は今までの出会いが与えてくれたものだといまさらながら感謝の気持ちが出てくる。私も人に何かを与えられる人間になっていきたい。

妙好人

 

妙好人

妙好人

 

 

 物事の加減にも色々あるが、「絶妙」というところを狙っていくのは実に難しい。それには一定の基準というものが存在しないもので、ケースバイケースで変化していくものだ。常にその場の状況を読み取るバランス感覚も必要だろうし、変化に流されすぎないでいる腰の据わりも必要だし、変化に対応する柔軟性も必要だろう。色々な要素を程よく兼ね備えた人物というのはそういるものじゃない。器用すぎるのも考え物だ。器用でいると現状に満足してしまい成長がなかったり、人に使われてしまったりする。決めつけず、決めなさすぎず、白黒思考のカンフル剤として、この「絶妙」ということばは大事にしたい。

嫉妬と自己愛

 

 

 人を立てるということが苦手だ。わたしは割合、他人に対する興味が薄く、他人がどこで何をしていても、実害さえなければ素直に「そうなんだ」と受け入れ、話を流してしまう。もちろん話に適当な相槌を打ってはいるつもりなのだが、それでは満足してくれない人というのがいて、無視されたとか、聞いてないなどと思われてしまう。

 他人に共感するという能力がないかというと、決してそうではなく、ケガをした人がいればかわいそうだと思うし、結婚した人がいれば自分もうれしいと感じる。ただその多くはどこかで聞いたような話ばかりで、本人取ってはようやく苦労に苦労を重ねて手に入れた幸福、あまりにも理不尽な仕打ちなんてのもこちらからすれば真新しさというものが感じられない。自己顕示したい人々というのはおそらく、自己評価がかなり高く、わたしは特別な人間だと心のどこかで思っているふしがある。それがうまく働けば、自己成長につながるのかもしれないが、例を見ると大概が井の中の蛙でいることが多い。それじゃあお前は大海を知っているのかと自身に問うならば、「知らない」と無難に謙遜しておくが、その謙遜はどこか己惚れていて、「私は常識的な人間です」としたり顔をする人間のうさん臭さみたいなことも気を付けなければならない。結局のところ人はみなどこか己惚れたところがあるし、己惚れた態度を隠さない人間もそれはそれで素直でよろしいということにもなる。ただ人には見栄や体裁というのをひどく気にする人間というのがどこにでもいて、自己防衛のために自分ももっとうまく取り繕って、誉めたり持ち上げたりしないといけないのかもしれない。人に対して寛容でいることも、一種の自己愛に繋がるものだ。

神秘の人々

 

神秘の人びと

神秘の人びと

 

 

 思わせぶりな文章というものがある。それは本当に何かしらの意味を含んだ文章であったり、また文章そのものに意味なんてない、適当な呪文のようなものなのだけど、人の妄想を掻きたてるようなところがある。

 

 人は様々なことを勝手に妄想したり脳内で補間したりしている。歳を取ると小説が読めなくなるのは、現実というものを割と正確に見据えられるようになったということでもあり、同時に若いころの身勝手でファンタジーな世界観を思い出せなくなっているということでもある。

 

 歳を重ねると、こんなことはできないと思うことが増えてくる。ただその定型的な常識というものには常に例外というものも存在している。普通はこの歳で医者なんかなれないだろうという人が医者になったり、子どもなんか産めないだろうという高齢で出産する女性もいる。現実的なことはわかりやすい美点で、周りからの評価も得やすい。歳をとり、夢を語る人の多くは周りから邪険にされたり、馬鹿にされる。ただ現実的すぎるのも視野狭窄であり、現実的なことも行き過ぎると、非現実的なセオリー一辺倒のつまらない人間になる。大概そのような人は今の自分の現状に対して不満を多く持ちがちだ。だから夢見る人や生き生きとした人の足を引っ張る。あまりに地に足がついていないのも考え物だが、地に根の生えた人間の自己成長するつもりのない、周りを引っ張り落とすその態度は、反吐が出るほど醜く情けない。したり顔した皮肉屋より、馬鹿な夢想家でわたしは居続けたい。

日常学事始

 

日常学事始

日常学事始

 

 

 彼は中央線高円寺に住むフリーライターだ。力の抜けた文章が実に心地よく、読んでいた楽だ。この楽という感覚は実に大事なことだ。背伸びせず、かといって低くもなりすぎず、自然体でいるから無駄なエネルギーを使わずに済む。

 人はとかく進歩というものにどん欲だ。一生懸命に背伸びして、その限界を伸ばしていく。ただある程度のところで頭打ちになる。そうすると目に見えた結果が見えずらくなったり、今までのやり方が通用しなくなったりしてきて、スランプということになる。ただその苦しい時期にこそ、継続してやり続ける忍耐が問われる。がんばってはいけない。うまく力を抜いて、今自分のできることを最低限でもいいからやり続ける。するといつのまにやら、またうまくいきだす。言葉にすると簡単だが、実行するのを難しい。彼はその日常での感覚、今自分の置かれた心理状況や体調などを細かく感じ取りながら、日々の生活をいかにパフォーマンス豊かに生きていけるかを常に意識しているように思われる。自己管理という言葉で言い表すと小難しくなるが、なんてことはない、野菜を食べろとか体を温めろとか換気をしろなど、昔オカンの言っていたような些細なこと。だがその些細なことが、精一杯背伸びをした人間の足元を支える地盤であり、人がどれだけ優秀になろうとも、所詮はどこにでもいる、何億という数のうちのひとりでしかない。自惚れと謙遜は地に足がついてこそ説得力がある。彼の生き方、生活にはそれがある。

天才たちの日課

 

天才たちの日課

天才たちの日課

 

 

 この本は何かしらのクリエイティブ職に就いている人々がどのような生活を送り、どのように時間を作り、どのように生活費を稼いだかが161人分記載されている。その生活スタイルは千差万別で、専業のものあり、兼業のものあり、規則正しい生活を送っているものもあれば、不規則で自堕落とも見える生活を送っている者もいる。ただそこに何かしらの共通点を上げるとするならば、一見その才能から特異に見える彼らの生活は、多くの一般生活者となんら変わるものではなく、同じように悩み、同じように働き、同じように暮らしているということだ。

 このような本を読むと苦しいのは自分だけではないんだと慰められると同時に、自分の生活スタイルをゆるがされないように、心の中で彼らと一定の距離を置く自分がいる。人に共感しやすい人というのはどこにでもいて、私もどちらかといえば影響されやすい方だが、自分の想像する他人の気持ちというものがひどく身勝手な偏見に満ちていることにひそかに反省することがある。思いあがらないように気を付けながら生きる自分に自信が持てなくなるときもあるが、人のことなどわからないとばっさり割り切っていけるほどにも器用ではない。あれもよし、これもよし。優柔不断ここに極まれり。

神保町の路地 ‐風景描‐

神保町

神保町

 

 

 神保町の古本祭りの際。私は靖国通りの街路を岩波ホールの方向へ歩いていた。するとひどく込み合った地点に出くわした私はそれを避けようと左に折れ、小宮山書店主催のガレージセールが前方に見える狭い路地に入った。その路地には灰色の古めかしい、貧しげな建物が建つ路地で、私はそこを早足に、何気なく歩いていたのだが、どのような店かいまいち判然としない建物の前で、これまたどこの国とも知れない外国人(インド人?アラブ人?)数人が、その建物の小さな扉の前に集まっていた。私はその光景に足を止めることも無く、その道を通り抜けようとすると、正面から、この路地の風景の写真を撮る白人系外国人の男性がいた。私はその場所、状況に、どこか見知らぬ異国にいるような解放感を感じ、妙に印象に残っている。